今日もこのブログを見に来てくださり、本当にありがとうございます。
前回の更新から一月以上も経ってしまいました。これは私にとって7月と8月が過酷であったことを物語っています(泣)
この夏は家庭内のアクシデントに振り回されてしまい、落ち着いてブログを書くことができず、ピアノも弾けず、、という状況でした。まぁ色々あるということです!!!
荒波にのまれ、翻弄され、自分の手綱をコントロールできなくなるような時。きっと誰にでもあると思います。
そんなときは新しい境地を開くチャンスではないでしょうか。
辛いときこそ、人生の流れを完全完璧に信頼するようになるチャンスです。
海の底に碇を下ろしておけば、表面上はどんなに荒波にもまれても、再びやってくる凪を心静かに待つことができます。もっと上手にやる人は、荒波の中でも次の展開をワクワク楽しみに待つことができるのかもしれません。
自分の力ではどうにも出来ない事態に陥ったときには、握りしめている自分流の考え方を手放さなくてはならなくなり、知らないうちに「祈る」という心境に近づいている気がします。
流れを信頼すると、多くの人の愛に囲まれていることに気づくようになり、有難いなぁという気持ちが湧き上がってきます。
現在、我が家も、思いがけない方向へ展開しています。
話は変わりますが、この夏、今子供たちの間で大流行しているという「鬼滅の刃」の漫画を「面白いからお母さんも読んでみてよ!」と次女に誘われて読んでみました。最近次女にはあまり話をしてあげる暇もなく、可哀想なことをしているなぁと日頃から思っていたので、子供と共通する話のネタを作ってあげようという気持ちで読み始めました。
そして一冊目。アッという間に読破。面白いじゃん!!!
「次っ!」「次貸して!」と娘の本棚からかっぱらってきて、とうとう今出ている全ての巻を読んでしまいました。
面白かったです!さすがは爆発的な人気作品だと思いました。
さきほどパソコンを覗きにきた次女。
「鬼滅の刃」のことをブログに書いている事に気づいたようです。
「何これ?ピアノ教室のブログなんでしょ?」と不可解な気持ちを伝えてきました。
いやいや、関係ありありだと思ったのです、ピアノと鬼滅の刃。
やっぱピアノと同じだよなぁぁぁ~とつくづく感じてしまったのです。
鬼滅の刃では主人公やその仲間たちが死に物狂いで闘いながら鬼を退治していく話ですが、「闘いの物語」である以上に「愛と赦しの物語」だと感じました。事態は常にパラドックスです。鬼の残酷さの裏には深い孤独や哀しみがあること、犯された全ての犯罪も愛によって赦され、救われてゆくこと、闘いの真の強さは愛から生まれること、強さを求めて積み重ねた厳しい鍛練の果てには「無心の境地」がやってくることなど。ワクワクドキドキする中に温かい気持ちが流れ続ける物語でした。
そこで!
「鍛錬」という言葉に反応してしまった私であります。
炭治郎(主人公)たちが強くなろうとすることを、ピアノで言えばうまくなろうとすることに重ねられます。
ピアノと鬼滅の刃がどんなふうに重なったのか、ちょっと書いてみたいと思います。
炭治郎編→ 強くなるために、炭治郎たちは体力の限界に迫るような厳しい鍛錬をします。
ピアノ編→ うまくなるために、ピアノの生徒さんたちは、繰り返し繰り返し何回も弾き続けます=はい、鍛錬!
炭治郎編→ 厳しい鍛錬の末、体力の限界を超え、考えることを放棄し、脱力状態、即ち「空」の状態となります。
ピアノ編→ 愚直なまでしつこい練習の末、うんざりし、新鮮な感情もなくなり、自分で何とかしようという気持ちもなくなり、これ以上何も起こらないような飽和状態になります。即ち「うんざり、つかれた、やりきったぜ感」
炭治郎編→ 「空」の中で新たなインスピレーションがやってきます。これはまるで大自然のパワーが人間の体を貫通し突き動かすような動きとなって現れます。そして、こうなるとメッチャ強い。
ピアノ編→ 練習し尽くしても新しい感動や飛躍がないと思っていたある日の練習で、突如新しいインスピレーションがやってきます。これは私が弾くのではなく、音楽の方が私の体を乗っ取って弾かせてくる感覚で、もはや私は個人ではなく、大気に満ちている何者かになっている。
両者、似ています!
炭治郎はよく考える子だけれど、鍛錬では、ひたすら何回も疲れ果てるほど同じ行為を繰り返していたのです。肉体を使い果たすほどに練習すること。これは技を磨くための登竜門なのだという点で、ピアノの練習と一致すると思いました。
今日も結局練習のお話になってしまいました。そのくせ、私は最近ちっとも練習しておりません。
ミニコンサートに向けて一生懸命練習してくれている生徒さんたちを愛おしく思います。
今日はこの辺でおしまいにします。
またぜひ、このブログへ遊びにいらしてください!
立川市栄町 ピアノ教室ソラージュ